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大事なこと

世の中にはたくさんの大事なこととされる教えがある。

自分はあまり人に言える立場ではないが、シェアリング・エコノミーの時代である。知識もシェアリングすれば1人よりも良い学びができるかもしれない。

大事なことは人数はできるだけ少なくすることだ。

すべての4以上の偶数は2つの素数の和で表すことができるという有名なゴールドバッハ予想がある。

数学における予想はまだ証明されていない問題である。

1995年アンドリュー・ワイルズによって解決されたフェルマーの最終定理は証明されたから定理と呼ばれる。

フェルマーの小定理というものもあるため、長年未解決だったフェルマーの予想は最終定理と呼ばれるようになる。フェルマーディオファントスの本の余白に書き込んだことも問題だが、一番の問題はそれを発見してしまったことだ。

素数は出現パターンが読めないユニークなものであり、さらには数の元素と呼ばれる大事なものでもある。

量子力学におけるハイゼンベルク不確定性原理アインシュタイン相対論を組み合わせ、位相幾何学的解釈によってある程度はわかるかもしれない。

フィボナッチ数が関係すれば、恐らく遺伝工学的知識も必要になるかもしれない。

リーマン予想の場合は解析的整数論からのアプローチも非常に面白いがリーマンのζとセルバーグ・エルデシュを結びつける紐、宇宙物理学の超ヒモ理論とリーマン積分、シーゲルのアプローチが良いかもしれない。

臨界線、線とくれば、リーマンの業績の1つであるリーマン幾何学的解釈もユニークかもしれない。

ユークリッドの第5公理について、平行線は存在しないとしたことで非ユークリッド幾何学が誕生したならば、線=点にすればよい。

あらゆる臨界点について並べば一直線になることを証明する方法はどうだろうか。膨大過ぎて現実の平面上には描くことができない。なぜならば、ユークリッドによって素数は無限にあることが証明されているからだ。

無限の無限の無限の無限と集合論的に、カントールのように考えても無限と有限の間には到達しない。

有無を言わさず、素数は無限に続いていく。

ここらへんで、変人以外は人間の考えた数字でなぜここまで考えているのだと感じる人もいるだろう。

大事なことは論理の中にはないということだ。

人間の考えた数字としたことは究極の合理性であり、ピタゴラスよりも合理的かもしれない。

しかし、その合理性は素数と向き合っている数学者には必要ないものだ。

素数というものに興味を抱く人間は基本的に数学者か変人か天才しかいない。

そもそも、数学の数すら見たくないという人も存在するかもしれない。

人間は必要不可欠なものと同じぐらい無駄もなければ退屈してしまう。

無駄は必要の云々である。

例えば、講義でもセミナーでも何でも想像してみてほしい。教える人が少しの脱線話もなく、必要なことを論理的に説明しているだけという場面を私なら熟睡するチャンス到来と前向きに捉えるが、退屈してしまう人も多いだろう。

大事なことは無駄なことはないということだ。

閑話休題。この言葉が無駄ではない証明である。

あらゆるものは無駄ではなく、過剰でもない。

バランスの取り方を間違えたが故に無駄や過剰・不足が生じるだけだ。

大事なことはそう多くない。自分が話したいときは相手に話をしてもらい、質問と相槌でうまくいく。

自分が話したくないときは、基本的に相手も話をしづらいだろう。そういうときは状況を見ながら、桜の開花の話でもしてみたらいい。

日本の社会は弱くなっていくというが、その前に日本人の頭が弱くなっていくことの方が心配だ。

確かに、日本は古きよき時代があっただろう。ただ、そのよき時代は先人たちが知恵を出し合い、命を削りながら作りあげたものということには同意する。

根本的に大事なのは、置かれた場所で咲くことができるかということである。

あのときは良かった。あの頃は良かった。なぜ、いまの現状を未来思考で変えないのかと感じる。

戻るのではなく、状況を過去の反省も含めて変えていく方向にベクトルを向けなければ未来はいつまでも来ない。過去に戻ることは物理的に不可能に近い。

日本は第二次世界大戦敗戦国であることは第一次世界大戦で勝ち組にいたということと同じように変えられない現実なのである。

その現実と向き合って戦後復興に尽力した人々も戦争で勇敢に散っていった人々と同じぐらい英雄なのではないか。

自分の国が負けたことを受け入れる勇気がない人間は可哀想な人間だと感じる。沖縄の人たちが声を大にして基地負担のことを主張するのは私たちが沖縄の人たちに対して仮面を被って対応しているからではないだろうか。

日本国民なら日本の安全のためにある程度犠牲になるのは仕方ないという論理は第二次世界大戦末期の玉砕と同じ論理である。その論理を正当化するにはその論理の主張者が率先して玉砕しなければ机上の空論以上にたちが悪いものになる。

日本国民ならという論理は破綻している。

日本はグローバル化を推進する側にあるとしている。

それはすなわち、ヒト、モノ、カネが国境を越えて広がっていく世界観に依拠する。

すると、地球人としてどうだろうかと考える必要がある。地球は究極の公共財なのだから、そのためには何が大切かを考えることも必要である。

自国中心主義はグローバル化が間違ったベクトルに向いた反動である。長期的にはグローバル化は正しい。

自国中心主義が隆盛した後に待つのは破局しかない。

多角的に考えて、国はできるだけ多くの国とつながって友好的な関係を構築した方が得である。

自国は現実的に大切であるから、ここでもバランス感覚が必要になる。

国内と国外のバランスである。

世界のパワーバランスも大切だが、一番大切なのは人類と動植物、原子的存在を含めての生物圏での平和的共存である。

人工的核は人類にとってだけでなく、地球にも宇宙にも影響を与えるものだ。

平和的利用は軍事的利用という現実があったことの裏返しである。

次の世界規模での戦争が起これば間違いなく、人類は滅びる、否、地球が滅びる。

現在のアジアの情勢は危うい。世界の情勢も危うい。

少し間違えたら大事になる可能性もある。

マラキの予言は信じていないが、せめて素数の謎が解けるまでは待ってほしいものだ。

国際条約でヒルベルトの問題が全て解決するまでは各国は戦という文字が入る行為をしないこととフォントの小さな文字で入れておけばいい。

それで効果はないだろうが、せめて数学者たちの夢ぐらいは叶えてあげてほしい。

数学は美しいのだ。特に数は。

ポール・エルデシュ

『私が生きていたら、明日も続けよう』